♪前回記事(その①)から続く
🔸「平城山」、「とんぼのめがね*」など、名曲が作曲されたことで作詞者が皆さんに知られるようになった典型的な例かと思いますが、北見志保子さんについてもエピソードなどありますでしょうか?
*額賀 誠志 作詩
♫まずは、「平城山」を詠んだ北見志保子作詞の短歌2首をご紹介いたしましょう。
ひと恋ふは 哀しきものと 平城山に
もとほり来つつ 堪え難かりき
(人を恋することは哀しいことであると、平城山を歩き回りながら、耐え難い想いでした。)
【参考】
歌唱の際に注意すべきポイント解説が、コンクール課題曲集に記載されています。
https://arioso-shop.myshopify.com/ いにしへも 夫(つま)に恋ひつつ 越えしとふ 平城山の路に 涙おとしぬ
(遠い昔、恋する人に想いを寄せつつ越えたという奈良の丘陵に来てみれば、切ない気持ちで堪えられず、私も涙を落としました。)
「夫」という字を書いて、「つま」と読みますが、古の奈良でかつて盤之媛(いわのひめ)皇后が、夫・仁徳天皇が妃をもらったことへ嫉妬した故事に因んでいます。
🔸北見志保子さんは、平城山へ何か特別な想いをお持ちだったのでしょうか?
♫当時北見さんが再婚を反対されたお相手で、フランスに留学中の濱 忠次郎を想う気持ちを重ね合わせた、とも言われていますが、ご本人はそれを否定し、後に奈良を訪れた際に、盤之媛(いわのひめ)皇后を想って書いたと語ったそうです。果たして真相はいかに⁈ (笑)
祖父自身は次の通りに解説しておりましたので、ご紹介いたします。
「《昔も今も愛情の哀しさにへだてはない》という由来の恋の歌だが、古都の歴史を物語るように曲は日本旋法で書かれ、ピアノは筝のリズムに似た形をとっている。」
ところで、北見志保子作詞の短歌による三部作については前回お話ししましたが、今回の「第1回平井康三郎声楽コンクール」の課題曲として、第一次予選に「平城山」、第二次予選に「甲斐の峡(さわ)」、そして、本選に「九十九里浜」が含まれていますね。
🔸北見志保子さんは当時としてはかなり豪快な方であったそうですね?
♫祖父と同郷の高知県出身(祖父は伊野町、北見さんは宿毛市)で、北原白秋にも師事された優秀な歌人でした。
本名を川島朝野さんと言いますが、まだペンネームが決まっていなかった頃、印刷屋さんが玄関先で原稿をまだかまだかと待っていたのです。
するとそこへ北海道の北見から塩鮭が届き、咄嗟に「北見志保子」と名付けたという逸話が残っています(笑)
また、今回の本選課題曲の「みだれ髪」の作詞者でもある与謝野晶子に匹敵する情熱家でした。
歌人の橋田東声との結婚後、東声の浮気が原因で悩まされますが、その後苦難を乗り越え、東声の弟子で12 歳年下の濱忠次郎と再婚したのです。
そこで、故郷宿毛市の役場で、戸籍を新たにすることになり、年の差を気にした北見さんは、「何とか年齢をさばよめないかね?」と役人に持ちかけました。
すると意外な答えが返って来まして、
「ごまかすことは出来ないが、写し間違いはある」と役人の粋な計らいで10 歳若返ってしまいました!
流石は坂本龍馬を生んだ土佐の豪快な女性ならではのアンチエイジング、とでも言いましょうか、これぞ究極の若返りの秘訣ですね(笑)
🔸北見志保子さんの人柄や武勇伝を伺うと、また作品の解釈や印象も深まりますね!引き続き、インタビューをこのブログでご紹介していければと思います!
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